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本石灰町

本石灰町(もとしっくいまち)


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石灰を扱う所が集まった町。石灰は、土と混ぜて建築や防水に使われたり、油の精製に使われる。はじめは石灰町と称されたが、油屋町を挟んで今石灰町新石灰町が出来たので本石灰町となった。諏訪三社の一柱である住吉神は、この町の尾崎にあった。

傘鉾

<飾>
昭和59年までは「紅葉と火焔太鼓に町名を記す」、平成4年に「藍塗り八角の台座の上にアニオーさんの宝箱」、平成11年から「大小の瓢箪一対を台上に載せ、正面に御朱印状、後面に交易の金札を配す」となる。

<輪>
ビロードに町名を金刺繍文字(大浦澄泉書)

<傘鉾垂>
赤染め塩瀬羽二重にアニオー行列を刺繍で再現。房は組紐平緒に玉を鏤(ちりば)め四本で東西南北を表す。(原田擴増氏寄贈)

現在傘鉾 

演し物

昭和38年までは「本踊」、昭和45年からは「御朱印船」

御朱印船  旧傘鉾

永島正一氏は、本石灰町を以下のように紹介しています。

 もとしっくいまち。石灰をしっくいと読むのは唐音である。唐人ことばの訛(なま)ったものである。漆喰。長崎では天川シックイという。天川はアマカワ、マカオのことである。石灰町とは誠に味のある町名である。
 シックイは、土間、流し間、壁に用い、屋根がわらの固めに用い、その他用途は広いが、唐人船は水漏れを防ぐ目塗りにも用いた。
 この町はシックイを一手に扱った町であろうか。
 当町の傘鉾は、町名を記したかえん太鼓を中にして左右に紅葉の楓(かえで)輪はシメ飾り、タレは塩瀬羽二重五色模様入り三社紋の金糸縫い。
 傘鉾の飾り、段尻の屋根飾りにある紅葉の楓は、蝋紙(ろうがみ)を用いた。蝋を染みこませた和紙である。防湿用、装飾用であるが、秋日に映えると、なんともいえな色のさえを見せる。
 この町の出し物は本踊りで、「紅葉狩り」であった。
 明治時代以来「紅葉狩り」である。昭和31年にも「紅葉狩り」に「神山車」(みやまぐるま)の曳(ひき)物であった。昭和38年には本踊り「月花蒔絵盃」と外題が変わって、「神山車」がつく。
 ところが、昭和45年になると豪華な「御朱印船」が出る。
 本石灰町には、昔、荒木宗太郎の一族の荒木家があって、くんちの出し物に「アニオーさんの行列」を出していたという。そして本石灰町の「アニオーさんの行列」は、人気を博した。
 本石灰町の日和原忠雄さん、原田拡増さん、尾崎敏夫さんなどから出し物について相談を受けたとき、「御朱印船」のヒントを差し上げたら、衆議一決、日和原さんたちは、たちまちにして見事な御朱印船を造り上げて、かわいい荒木宗太郎とアニオーさんを乗せ、いろいろと趣向を凝らした。
 荒木船の船団は、オランダ東印度(インド)会社のマークを逆さにしたものだが、これを知らない人たちからご親切(?)に「旗が逆さになっている」と注意やら文句やらがいつも舞い込むという。荒木宗太郎は、数百年前に既にそのことを見込んで、東印度会社のマークを逆さにして東印度会社のマークを見誤らせ航海上の安全を図ったものではなかろうかと、「徳川初期の海外貿易家」の中で、川島元次郎博士はいっておられる。
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)

越中哲也氏は、本石灰町を以下のように紹介しています。

 町名はモトシツクイ町とよむ。昔、この町は玉帯川の川口にあたり浜崎とよんでいた。シツクイのことを長崎では天川(アマカワ)と呼んでいた。天川とはマカオのことである。長崎のシツクイの原料は、始め、マカオから船で運ばれ、ここの川岸につまれていたことより石灰町の町名になったという。このことが、奉納踊りにとり入れられて、昔、長崎を出船した御朱印船が遠くベトナム、マカオ方面にまで出かけた故事に因んで、荒木宗太郎の御朱印船を出している。
(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)

参照

本石灰町御朱印船2013
踊町

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