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船大工町

船大工町(ふなだいくまち)


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 船の修理場などがあったところから船大工が多く住んでいたのでこの町名となった。寛永の頃は新船大工町と称していたが、正保の頃に船大工町と改められる。

傘鉾

<飾>
 檜板葺き屋根型の上に上棟式具(この町の傘鉾には輪がない)

<傘鉾垂>
 蝦夷錦 金襴織り出し牡丹唐草地紋に五爪の龍の模様

船大工町傘鉾 

演し物

 「川 船」(かわふね) (飾)紅葉に白菊

船大工町川船

永島正一氏は、船大工町を以下のように紹介しています。

 唐人屋敷の隣町が籠町で籠細工屋さんの町で、隣が船大工さんの町で、そのまた隣が石灰屋さんの町で、思案橋を渡ると鍛冶屋さんの町、その隣に油屋さんの町。長崎の下町のにおいがプンプンする。そのうえに唐人屋敷からの唐風がそよそよと吹き渡る感じの町々である。
 船大工町の傘鉾は、長崎の傘鉾中、ただ一本だけ輪がない。特徴のある傘鉾である。
 桧板ぶき屋根形の上に棟上屋上飾り、中央に三つ巴(どもえ)の金紋を付した木槌(づち)、町名は小曾根乾堂(けんどう)の書、金銀日の丸の扇を円にし、柱二本に揚げる。それに陰陽の鏑矢(かぶらや)二本を斜めに紅白の縮緬(ちりめん)にてくくる。タレは、金らん織り出し、牡丹(ぼたん)唐草地紋に、ほうおうの鳥、竜の模様。
 戦後、県庁(まゝ)の前庭にお旅所ができた年がある。私が始めて「くんちの解説」というものをしたときである。船大工町の傘鉾がスマートに大きく回った。「長崎の傘鉾の中では、この傘鉾が一番軽いようです」といったら傘鉾持ちの皆さんが、ギョロッと私をにらみつけて今にも詰め寄らんばかりの険悪な気配となった。
 そこですかさず私は続けて「軽いように見えても傘鉾というものは、どれも重たいものです。皆さんご苦労さんです」というと、見物衆から拍手が起こって「モッテコーイ、モッテコーイ」。以来、私は傘鉾が軽いなどど口軽いことは言わないことにした。
 出し物は、いうまでもなく川船。昭和52年には、86年ぶりに新調した川船であった。
 この踊り町の組に「堀町」と「新町」があるのだが、この両町の傘鉾と踊りを私は見たことがないように思うが、どうなっていたのであろう。ご存じのお方はご教示をいただきたい。
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)

越中哲也氏は、船大工町を以下のように紹介しています。

 昔、この町の前面は海岸であり、唐人屋敷や浜町も近く、多くの船が、このあたりに、船がかりしていた。
その故に、いつしか船大工さん達が、このあたりに住みついたことにより、この町を船大工町といった。
奉納踊りもこの船ということにより、川船を古くより出している。また、船大工町の東口は、遊里丸山の入り口にあたるところから山の口ともいわれ、そこには「思い切橋」があった。
(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)

参照

踊町

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